■お互いに求めるもの | |
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人が二人いれば、相手に何かを求めることは自然だと思う。それが煩わしいならば一人の世界に閉じこもればいいし、それがそれほど悪いことだとは(少なくとも私は)思わない。一人でいる寂しさに耐えられるのなら、それでも構わないと思う。 でも大抵の人間は独りで生きていけるほど強くもないし、また一人で生きていかなければならないほど弱くもない。だから、おたがいに”ここまではお互いに必要としましょう”という決まりをつけて生きている。社会ではそれを契約関係といい、昔の偉い人は”社会契約説”などといって知識を体系化した。ただ、その思想がどのようなものかなんて今はどうでもいい。要は、大抵の人は誰かを必要としているということで、その関係にはお互いに求めるものが発生するということだ。 生活保護という領域においても、それは例外じゃない。ケースワーカーが生活保護受給者(ケース)に求めるものもあるし、逆にケースがワーカーに求めるものもある。そして、他の多くの事例と同じようにおたがいにもとめるものは違う。そして、その違いは他の事例に比べて、ちょっとだけその揺れ幅が大きい。 ワーカーは、(少なくとも建前上は)ケースが自立できるように援助活動をしていく。自立というのは、何も経済的なものだけではない。精神的に安定した日常が送れるように、さまざまな面から支援していく。”ケースが社会に受け入れてもらえるような”あるいは、”ケースが幸せだと感じられる生活を送れるように”、指導していくのがワーカーの役割 なわけだ。もちろんこの理屈はある種の傲慢であることは間違いないのだけど、いつだって現実はそうやって動いていく。 だからこそ、働けるのに働かないケースに対する風当たりは厳しい。ワーカーは、なるべく自立した生活を送るようケースに指導する。つまりは、職安にいって何とか仕事を見つけるよう要請するわけだ。時には強い口調になったり、強引に約束をさせたりする。もちろん、それはワーカーとしての”職務”であり、ケースにとっては受けなければならない”義務”である。 ただ、それだけでは割り切れないものもある。絶対に、ある。 [1999.04.19] ■Top |
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