■ケースの死 | |
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仕事をはじめてから、2週間が過ぎる。実際には今週は研修ばかりだったので、職場には入っていない。ただ、職場を離れていても誰かが仕事を変わってくれるわけではなく、また状況は常に変化している。こっちの事情などまったくお構いなしだ。変化の早さに、ちょっと待ってくれよといいたくなる。 ようやく研修も終わろうかという週末の夕方、職場の歓送迎会が開かれた。その席で、自分の担当のケースの死を告げられた。ショックだった。まだ会ったことも、話したこともない。わたしにとっては、ただファイルの上にのみ存在するもの。でも、それは事実だし、彼の死によって彼の家庭はますます大変な状況になっていく。”最後の堤防が壊れた” 毎日毎日ケースのファイルを繰りつづけて、様々な人生を覗き見ていると、自分自身がわからなくなる。今までの自分は一体なんだったのか。どうやって、この人たちと接していったらいいのだろう? たとえば、学校やバイト先で、同級生や先生や先輩や後輩と付き合うとき、”どのくらいの距離を置いて付き合えばいいのか”というのは自然に身につくものだと思う。わたしは不器用で、その距離を時々測りまちがえたりはするのだけど、それでもなんとか今まで生活することはできた。それは、たとえば子供が先生にどう甘えればいいのか、たとえば先輩として後輩にどのようにアドバイスをすればいいのか、たとえば塾の講師として生徒にどのようなアドバイスをすればいいのか...それらはあらかじめ用意されたお手本があったし、それはもちろん場合によっては不完全なものであったり、反面教師とすべきものではあったけれども、たしかに自分の側に存在はしていた。それを見て、まねることでわたしは何とか人との距離を保つことができた。 それは、共通する土台があったからだ。同じ感覚、同じ生活、同じ人間関係。そうでない人とはどう付き合えばいいのだろう...。そもそも、自分は人とどういう風に付き合ってきたのだろう。はじめて会うとき、どんな挨拶をしていた。どうやって友だちをつくった。どうやって悩みを打ち明けた。どうやって...。そもそも、おまえにはそういう人間関係があったのか?きちんとできているのか?それは、幻想じゃないのか?人の真似をして、ただ演技をして、うまくやりすごしているだけなんじゃないのか?なあ。違うか。 ケースとの対応にはお手本がない。職場の先輩たちに学ぶことは多いだろう。失敗しそうなときは助けを求めることもできる。でも、基本的には”一人で”ケースと一緒に問題解決に向けて努力していかなければならない。それを、これから学んでいかなければならない。できるかどうかはわからない。でも、やらなければいけないんだと思う。やり過ごしてしまうのは、たぶん自分で自分が許せない。 普段は”ひゃー”とか、”うひょー”とかやってるけど、時にはシリアスにならなきゃならないときもある。たぶんきっと今がそういう時なんだろう。 月曜日には、残された家族の善後策を練るために訪問がはじまる。 [1999.04.16] ■Top |
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